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■キリンジ『drifter』の私的解釈



 歌詞は、聴く人によって解釈が異なる。
 だから、世界的に有名なビートルズの『Yesterday』も、恋愛の歌だと思っている人もたくさんいる。

 でも、その歌を作った人の履歴や創作の背景に踏み込むと、「恋愛の歌のようにも受け取れるけれど、どうも違う。べつの意図が隠されているのでは?」と気づくことがある。

 そこで、僕は『Yesterday』について、突然に自分の元を去ってしまった母親を息子が悲しみ、自責している歌だと独自に解釈したブログ記事も書いた。
 さらに他のビートルズの他の名曲にも言及した詳細な解説を『猫とビートルズ』(金曜日)という本に書いている。

 さて、この記事で解釈してみたいのは、キリンジの『drifter』だ。
 この歌は、兄弟でメジャーデビューしたキリンジの兄・堀込高樹さんが作詞・作曲を担当している。

 キリンジについては、東京郊外の暮らしにおける孤独や生きづらさを込めた歌が少なくないが、とくに『drifter』が毒親育ちの界隈で人気と知り、僕は「なるほどなぁ」と思った。
 まず、この歌を聞いてみてほしい。



 以下、歌詞を細かく解釈してみよう。


●損得勘定を最優先して生きる社会は、人間らしいか?

 『drifter』とは、「漂流者・放浪者」という意味の英語だ。
 同じところにはいられない事情を持つ人の歌であることを、表題が示している。
 家族や会社、サークルや国家など、所属先に居心地の悪さを感じている人の歌だ。

 この歌が一人称から始まることから、漂流・放浪しているのは歌っている本人。
 そして、この歌を堀込高樹さんがリリースしたのは2001年。
 彼が32才の頃の作品だ。

交わしたはずのない約束に縛られ
破り棄てようとすれば 後ろめたくなるのは何故だ
手巻きの腕時計で 永遠は計れない
虚しさを感じても 手放せない理由がこの胸にある

 どんな人にでも当てはまる「交わしたはずのない約束」とは何か?
 それは、生まれてきたこと、そのものだろう。
 誰も自分が望んで生まれてきたわけではないし、生き続けることを誰かに約束したわけでもない。
 その「交わしたはずのない約束」を「破り捨てようとする」とは、自殺のことだ。
 つまり、この人は、生きる意味を見失い、「ここではない、他の場所」を求めている。
 死んでもいいはずなのに、なぜか「後ろめたくなる」。
 その理由は、自分と誰かとの人間らしい関わりに未練と希望が残っているからだ。

 生きている間に急速に技術革新が進み、デジタル時計や自動時計を利用する人が多数派になった現代では、人間が関わらないと針が進まない「手巻きの腕時計」は、人間らしく生きたいと望む少数派の象徴といえる。
 「手巻きの腕時計」は、デジタルで永遠に動く時計とは異なり、利用する人間の寿命の分しか動かない。
 自分の人生の残された時間の少なさを思うと、できないことばかり思いついて「虚しさを感じ」てしまう。
 それでも、それなりの年月を生きてきた32歳の高樹さんは、人間らしく生きようとしてきた履歴を振り返り、「(手巻きの腕時計を)手放せない理由がこの胸にある」と書いたのだろう。
 自分が関わらないと動かないものがあるという現実を前に。

たとえ鬱が夜更けに目覚めて
獣のように襲いかかろうとも
祈りをカラスが引き裂いて
流れ弾の雨が降り注ごうとも
この街の空の下
あなたがいるかぎり僕は逃げない

 このサビの部分の説明は、不要かもしれない。
 この人は「鬱」になるほど生きづらいんだ。
 しかも、自分の生を認めることにあきらめかけている。
 それでも、「あなたがいるかぎり僕は逃げない」と気持ちを必死に刻印している。
 これって、実はよくあることだよね?

 たとえば、孤独な生活保護の受給者が、自分自身のために生き続けることに絶望しかかっていても、捨て猫を拾って育て始めた途端、「自分がこの子と関わって餌をあげ続けることから逃げてしまえば、この子まで死んでしまう」と気づくことがある。
 だから、「あなたがいる限り僕は逃げない」と心を決めるしか無いし、決心したからこそ自分自身の生きている意味や価値も、付き合う相手によって担保されることに思い当たるんだろう。

 それが人間らしいやさしさであり、自分を一つのところにつなぐものなんだ。
 同時に、かろうじて「この世」に自分をつなぎとめているものといえる。
 この歌がイントロからやさしいピアノと弦の旋律で始まるのは、そういう絆がまだあることに気づいた安らかでやわらかな気持ちを反映しているのかもしれない。

人形の家には人間は棲めない
流氷のような街で追いかけてたのは逃げ水
いろんな人がいて いろんなことを言うよ
お金がすべてだぜと言い切れたなら
きっと迷いも失せる

 「人形の家には人間は棲めない」とは、デジタル時計と「手巻きの腕時計」との対比と同じで、人間のようでいて人間らしくない生き方を強いる社会の仕組みの中では、人間らしく生きようとすることが難しい。

 しかし、社会の仕組みのようなおおごとを大きな声で言いたいのではなく、「家」という言葉を持ち出していることから、これは家族の中に社会の仕組みに乗るばかりで損得勘定を最優先にしたがる親がいて、その親のために家にいづらくなった子どもに注目させたいのだ。

 子どもが家の外へ出ても、自分を助けてくれる人がいない「流氷の街」。
 それでもどこかに自分を救ってくれる人がいるんじゃないかという幻想(=蜃気楼)を持ってしまうのが漂流する子どもであり、だから「追いかけてたのは逃げ水」。
 逃げ水とは、蜃気楼のことだからね。

 実際、家出して生活を誰かに頼ろうとすると、売春せざるを得ない子どももいるし、それを「非行少女」となじる大人もいる。
(※堀米さんは、『千年紀末に降る雪は』という歌で援交少女について「冷たい枕の裏に愛がある」と寛容的に歌っている)

 だから、この歌では「いろんな人がいていろんなことを言うよ」とやさしく語りかける。
 「非行」と批判を受けた子どもだって、「いいもん、私、売春婦だもん」とは居直れず、迷うばかりなのだ。
 その迷いは、漂流する子どもの孤独を知っている人なら痛いほどよくわかるはず。
 だから、「お金がすべてだぜと言い切れたならきっと迷いも失せる」と書いたのだろう。

 お金では計れない価値あるものは、損得勘定の家から出て漂流した子どもこそが獲得していけるものではないか?
 そういう問いかけが、そのフレーズには含まれているようだ。

みんな愛の歌に背つかれて
与えるより多く奪ってしまうんだ
乾いた風が吹き荒れて
田園の風景を砂漠にしたなら
照りつける空の下 あなたは
この僕の傍にいるだろうか?

 「愛の歌に背つかれて」とは、どういう意味だろう?
 ラブソングの多くは、「私はきみを愛している」という内容だ。

 でも、そうしたラブソングは、生きる意味を失いかけて放浪している人にとっては、「誰を愛すればいいかわからず、愛せないで流れていくばかりの自分は今後も愛されないままなのかもしれない」とか、「誰にも愛されない私には生きていく資格がないのかも」という脅しにも聞こえてくる。

 その一方で、お金の心配もなく家族がみな愛情にあふれている、住宅会社のTVCMの出演者のような人たちは、ラブソングを素直に聞けるリア充ライフを楽しんでいる。
 でも、彼らは、誰とも愛情のある関係を築けない孤独な人たちのことを思いやることがないし、無関心だ。

 彼らが安っぽいラブソングを望み、実際に安っぽいラブソングが市場に流通するほど、孤独な漂流者たちは恋愛や友情へのあこがれを動機づけられることが無く、安っぽいラブソングによる同調圧力によって、むしろ「どうせ私なんて愛されない」というあきらめを作り出す。

 つまり、リア充の方々は、結果的に孤独な漂流者たちから恋愛や友情などの人間関係を「与えるより多く奪ってしまう」んだね。
 そうしたリア充な人たちが、そのつもりがなく吹かせる「乾いた風」は、いつしか、うるおいのある「田園の風景」すら「砂漠に」してしまうのではないか?

 世界中がそういう「砂漠」になってしまったら、自分と同じように孤独ゆえに漂流している次世代の弱き者たちは、「お金がすべて」と居直ってリア充への仲間入りを目指し、金で買える安心を選ぶのか、それとも金では買えないものの価値に気づくのか?
 そう、問いかけているのだ。

きっとシラフな奴でいたいんだ
子供の泣く声が踊り場に響く夜
冷蔵庫のドアを開いて
ボトルの水飲んで 誓いをたてるよ
欲望が渦を巻く海原さえ
ムーン・リヴァーを渡るようなステップで
踏み越えて行こう あなたと 

この僕の傍にいるだろう?

 安いラブソングがリズムで誘う高揚感。
 お金持ちになればその方法をいくらでも正当化できると勘違いしてしまう浅ましさ。

 そうした自分を見失うようなトランス状態に現実逃避し続ければ、楽だろう。
 援助交際も、離人感(自分ではない人がやっているという感覚)というトランス状態に自分を置けば、いつまでもできる。

 しかし、この歌の主人公は「シラフなやつでいたいんだ」と自分の本心に気づく。
 だから、自分が住んでいるマンションの踊り場で泣いている子どもの声を、決して無視できない。
 その子が親から虐待されて、真夜中に家の外へ出されてしまったことに容易にピンとくるから。
 その子どもも、きっと自分と同じように誰かの損得勘定で漂流者にさせられた仲間であり、生きにくい自分だからこそ関われるはずの存在だから。

 では、「ムーン・リヴァーを渡るようなステップ」とは何だろう?
 オードリー・ヘップバーンが映画『ティファニーで朝食を』で歌った名曲『Moon River』も、2人の漂流者が助け合って生きていこうという内容だったが、その歌に登場する川は実際にアメリカにある1マイル(約1.6キロ)より広い川のこと。
 これじゃ、とても渡れない。
 『drifter』の場合は、文字通り「月にある川」として解釈したほうがいい。

 地球の6分の1しか重力がない月にある川なら、小さな力でも地面さえ蹴れば、ふんわりと飛んで軽やかに「踏み越えて」いける。
 そのふんわりと「踏み越えて」いくアンリアルな姿は、トランス状態に重なる。

 ときどきトランス状態にもなって、リア充な人たちから批判されるかもしれないけれど、そんな自分を許しつつ、そうした現実逃避も許し合える人どうしとして付き合っていけないか?

 この歌の主人公は、そう問いかけているように思う。
 踊り場で泣いている子どもに対しても。
 自分が愛し合えるはずの誰かに対しても。
 この歌を聴く人に対しても。

 この歌は、どうしようもなく絶望を与える現実の社会で、それでも生きていけるかもしれない希望をリスナーと分かち合おうとしている。
 だから、最後に「この僕のそばにいるだろう?」と傷だらけの漂流者の自分自身をさらしながら問いかけるんだ。

 …と、まぁ、自分なりに解釈してみましたが、この歌を作った堀米高樹さんから「ちげーよ!」とツッコミが入ったら直しますw
 でも、ほぼほぼ合ってると思うので、上に紹介した動画で確かめてみてください。

 この歌には、昨年(2017年)、『日本一醜い親への手紙 そんな親なら捨てちゃえば?』の制作資金400万円を集めるため、事前購入や寄付を呼びかけていた期間に、何度も何度も聞いては、折れそうな心を救われ、励まされた。

 本当に良い詞だと思う。
 ありがとう、堀込高樹さん。


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【関連ブログ記事】
 『日本一醜い親への手紙~』の目次

 事故としての子ども虐待 ~責任を覚悟すること


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