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■ひきこもりをこじらせ、深刻化させているのは誰か?

 最近、優等生タイプの人たちの暴走が、目に余るようになってきた。
 昨年末には、AV女優たちがAIDS予防のための寄付に意義を感じて楽しくやっていた「おっぱい募金」に、Change.orgで中止を求める署名を集める人たちがいた。
 今年に入ると、AVの仕事を強制的にさせられている調査報告書を公表し、業界の監視強化や被害者を救済できる法改正などを求める記者会見を行う人権団体もあった。

 いずれも、「被害者」である女性たちが働く映像制作会社に対話を申し入れることもなく、真っ先にメディアに訴え出た。

 これって、「先生、◯◯くんが悪いことしてまーす!」とすぐ統治権力を頼りたがる、優等生の常套手段に見える。

 僕が中学時代の頃は、校内暴力がピークだった。
 教室内では、リーゼントヘアの脂ぎったヤンキーたちが、所狭しと暴れ回って騒いでた。
 学級委員長だった僕は、「なんとかしてくれよ…」というクラスメイトたちの視線を受ける形で、ヤンキーのボスに「静かにしてくれ」と静かに頼み込んだ。
「…んだ、こらぁ」
 そこからは乱闘。
 腹を据えて、ボッコボコにパンチやキックを受けながらも、雑魚には目もくれず、ボスだけに突進していって追い詰めて行った。
 ボスは180センチを超える巨漢で、さすがにケンカでは負けたが、その後は仲良くなった。
 ボスにケンカをふっかける人はいなかったし、ボス自身、何度も自分だけをしつこく追いつめられたらたまらないと思ったのだろう。

 これでボスとタイになったので、翌日から彼の手下連中は僕に「さん付け」するようになった。
 そして、勉強の嫌いな彼らに、テストの点を要領良くとれる方法を教えてやるようになると、ボス以下、ヤンキー連中は素直に僕の言うことを聞いてくれるようになった。
 深夜にバイクで僕の自宅に来ては、「ここがわからない。教えてくれ」と頼み込むヤツもいた。
 もちろん、相変わらず、先生には食ってかかっていたが、先生たちが僕に「私の見てないところで連中が教室で暴れてないか」と探りを入れてきても、「べつに。ふつうですよ」と答えた。
 ヤンキーにとっては、「拳が言葉」なのだ。
 拳を交える覚悟さえすれば、彼らとまともな関係を築く余地は大きいのだ。

 ヤンキー文化と、インテリ文化は、その時点で異なる文化として存在していた。
 しかし、先生や優等生のほとんどは、ヤンキー自身の言葉やニーズに応えようとしなかった。
 自宅謹慎や児童相談所への送致、警察への協力打診など、統治権力に頼ることを真っ先に検討するのだから、この国には国民主権や民主主義など芽生えていないことは明らかだった。
 民主主義って、真っ先に統治権力に頼って解決を進めることじゃない。
 問題が起こったらまず国民どうしで対話し、話し合いの中で解決するのが民主主義のはずだ。

 対話を重ねても解決できない時に「必要悪」として利用されるべき統治権力に、なぜ真っ先に訴えるのか?
 そうした強大な権力へ真っ先にすがる世間に生きづらさを覚えるから、個人の暴力という形で反対の意を示すしかないヤンキーの方が、僕には素直な連中に見えた。
 インテリ文化には、優等生が「混ぜるな危険」とばかりに対話の場を設けずにヤンキー文化を毛嫌いしている雰囲気が感じられる。
 それが目に余るのだ。
 問題の当事者どうしの話し合いをすっ飛ばして真っ先に権力にすがることで、民主主義の目覚めをいつまでも日本人に封印させているのだから。

 そして、ひきこもり問題にも、インテリ文化ならではの「ヤンキーを毛嫌いしている雰囲気」があるようで、今回はそのことについて書いておきたい。

 親の依頼を受けたひきこもりの支援団体(ワンステップスクール)が、当事者が説得に応じない場合に怒鳴ったり、ドアを拳で突き破って部屋から出そうとする場面などを紹介した『ビートたけしのTVタックル』(3月21日放送)について、精神科医の斎藤環さんらが4月4日の記者会見で以下の共同声明を出した。
 共同声明を読まれる前に、Youtubeにアップされている同番組を見てみよう。



●ヤンキー系支援団体の2件の失敗にこだわる斎藤環氏

 では、斉藤氏らが発表した共同声明を読んでみよう。

 この放送の中で、団体がひきこもり当事者に対し、「現実逃避するなよ」「できないからこんな状態になっているんだろ」「(やると言う返答に対し)できないだろっつうの!」「やーだのあーだのうーだの言ってる暇があったらよ、自分の自立一歩でもどうやって進むか考えろ今!」「降りてこい!」と強い口調で恫喝・脅迫などの精神的暴力を行っており、代表者へのインタビューでは「息子が親殺しちゃったらどうするんですか」「(息子が)家に火つけて、隣の家まで巻き込んだらどうしますか」といった明らかな偏見を語っていました。
 また、出演者のトークでは「(親が死んでも働かないという現状に対し)タチ悪いですね」「(一度社会に出た人がまたひきこもりになることは)全く理解できない」といった発言がありました。
 私たちはひきこもりの経験がありますが、本放送で出た発言(「現実逃避するなよ」「自分の自立一歩でもどうやって進むか考えろ今」など)により自分の過去・現在を完全否定され、精神的に傷つけられたと感じています。
 また極度の偏見により(「親を殺したらどうしますか」など)、自分自身が「犯罪者予備軍」の一人であるような扱いを受けました。
 この放送では、壁を壊し恫喝するなどの人権侵害を平然と行っていながら、否定するコメントがほとんどなく、このことで自分が将来このような扱いを受ける恐れがあるという不安を煽られました。
 番組を通して「ひきこもりは悪い存在である」「親のすねをかじっている厄介者」といったような印象を突き付けられ、自分が社会の中で生きていく存在意義を奪われたように感じました。
 このような差別的発言が番組内で行われたことにより、自分の社会的尊厳が奪われ、人権侵害を受けたと感じています。
 また番組によりひきこもりに関して負のイメージを植え付けられ、自分の周囲との人間関係に悪影響を与える恐れがあり、今後の社会参加を妨げられないかと危惧しています。
 このような暴力的な支援団体を肯定的に取り上げる報道は繰り返されており、そのたびに私たちは大きな精神的負担を感じています。
 不快感を覚え、非常に傷ついた人もいます。
 同じような複数の団体が、利用者死亡などにより有罪判決を受けている事実をきちんと調べられたうえで、どのような判断に基づいて放送されているのでしょうか。
 以上のことから報道倫理に則り、偏った不公正な内容を放送しないこと、精神的暴力を行わないこと、事前のリサーチを行うこと、ひきこもり当事者の声を取りあげること、有識者の見解を取りあげることを、放送各社に求めるものとします
(※斉藤環氏のFacebookより引用)

 斎藤環さんは、個人的にも以下のように主張している。


 私たち精神医療に関わる立場のものが、今こそ深く恥じ入るべきことは、10年前に長田百合子や杉浦昌子の暴走(筆者注:杉浦被告が立ち上げた施設「アイメンタルスクール」で当時26歳だった入寮者の男性が外傷性ショックで死亡した事件)を止められなかった事実です。
 私たちは、しかるべき発言の権利と場所を持ちながら、彼らを「程度の低い業者」と冷笑するのみで、無視を決め込んでいました。
 そのような姿勢もまた一種の黙認となって、あのような事件の遠因となった可能性は否定できません。
 これ以上「戸塚ヨットスクール事件」「アイ・メンタルスクール事件」のような悲劇が繰り返されるべきではない。
 だから私たちは、今ここで、はっきりと異議申し立ての声を挙げたいと考えています。
(※斉藤環氏のFacebookより引用)


 斎藤氏は記者会見後、BPO(放送倫理・番組機構)の放送倫理検証委員会に対して、同番組の放送内容の審議を要請したという。
 もっとも、BPOの放送倫理検証委員会は4月8日、「放送倫理の問題として取り上げる理由はない」と一蹴した。
 BPOも、たまには良い判断を下すものだ。
 記者会見の共同声明も、斉藤氏の個人的な思いも、インテリ文化圏の内側では受け入れられやすい文脈にすぎない。
 社会全体から見れば、インテリの理想論だけで報道内容を査定するには無理がある。
 だから、インテリ文化圏内で番組批判をうなづき合っているようすを見ると、僕はモヤモヤする。



●ヤンキー流もインテリ流も、当事者にとっては「必要悪」

 斉藤氏は、こんなこともFacebookに書いていた。

 詳細は不明ですが、ある地域で「TVタックル」の問題の会、放映中止になったそうです。
 1つの成果ですね。
 こういう「はしたない」番組が少しでも減りますように。
(※斉藤環氏のFacebookより引用)

 それが事実だったら、とんでもなく恐ろしいことだ。
 ひきこもりに関する専門家やジャーナリストたちがこぞって記者会見で番組批判の声明を出しただけで、地方局が放送を自粛するなんてことが起こったら、それこそ報道の自由をテレビ局が放棄したも同じだから。
 誰かにとって「はしたない」と判断されようが、それは視聴者がそれぞれ判断することであって、個人的な意見で放送自粛が起こるとしたら、どれだけ強力な圧力団体だろう。

 他方、斉藤氏がTVタックルで問題にしたワンステップスクール伊藤学校代表理事・廣岡政幸さんは、自身のブログで以下のように番組批判の声にコメントしている(※一部を抜粋引用)。


 関係者の皆様にはご心配をお掛けしましたことを心よりお詫び申し上げます。
 これまで当社には、一切のクレームは入っておらず、逆に悩みを抱える当事者やその家族からの相談が急増しております。
 当校の活動が人権を無視した「暴力的支援」「ヤンキー上がりの引出業者」との批判が展開されております。
 ご指摘の通り、私自身は「ヤンキー上がり」であるゆえに至らぬ点が多々あり、粗暴な言動など誤解を招くような立ち振る舞いをしてしまったことは深く反省しております。
 しかし、現場では、いかなる場合においても正当な手順のもと事前に保護者(家主)および本人の同意を得た上で対応にあたっています。
 私のところには、120件、月に600件以上の悲痛な相談が寄せられています。
 現状の学校教育、医療、行政機関でケアができず、長期間にわたり行き場を失った人々です。
 その中でも30代~40代の大人のひきこもりが7割を占めており、長期化したことで当事者や親だけでなく家族や親戚までもが疲弊し、悲惨な惨状が生まれています。
 現場に到着した際、子どもの暴力で重傷を負っている保護者もいます。
 家中の物を破壊し、刃物を振り回している場合であっても、相手に攻撃された場合であっても、それが正当防衛であったとしても僕らは決して彼らに手を上げることはしません。
 当然のことながら命の危険を感じることもあります。
 しかし、子どもを警察に突き出せる親がどれほどいるでしょうか?
 家庭内の問題として留めようとする限り、警察は介入できません。
 事件、事故に発展する前に誰かが止めなければならないと考えております。
 当校には、500名以上の卒業生がおり、現在も120名が在籍しております。
 ワンステップスクールでは、警察、児童相談所、家庭裁判所、病院、教育委員会などと様々な機関との連携を行い、若者の自立をサポートしています。
 当然、各局の立ち入り調査も実施するなど安全管理を徹底しています。

 廣岡さんは、率直に「ヤンキー上がり」であるゆえに至らぬ点が多々あり、粗暴な言動など誤解を招くような立ち振る舞いをしてしまったと、素直に反省の弁を述べている。
 同時に、ひきこもりの人を外に出したい親からの依頼では、怒号や威圧的な言動がどうしても「必要悪」になってしまう現実も指摘している。

 この「必要悪」という構えは、あくまで粗暴な振る舞いが最終手段としての「やむにやまれぬもの」であり、「本当はそんなことまでしたくない」というとまどいを匂わせている。
 実は、アウトリーチ(家庭訪問)も、穏健派を自称する支援団体の居場所支援も、精神医療も、カウンセリングも、ひきこもり当事者にとっては「必要悪」という点で同じ程度の価値だ。

 ひきこもり当事者といっても、そのニーズは人それぞれ異なる。
 親の資産が豊富にあるから、心配や問題視をしないで放置してほしい人もいる。
 逆に、親に資産もなく、いっそ狂って精神障害者として生活保護を受給したい人もいる。
 人に会う交際費すら無いから、仕方なくネット上のやりとりしかできない人もいる。
 金や将来のことを考えると気落ちするから、一人で思考停止の現実逃避を続けたい人もいる。
 毎日「そろそろなんとかしなきゃ」とあせっても、心ひかれる支援や人物が見つからない人もいる。
 
 そこで、精神医療の点から健康であるかどうかを考えて生きなければならない義務はないし、治療しなければ次の人生を踏み出せないとしたら、ゴールも見えない途方も無い年月に頭がクラクラしてしまうだろう。
 病気であろうがなかろうが、自力では現状を変えられずに苦しみ続けている時、想定外の訪問者が家に来る。
 それが、ワンステップスクールの廣岡さんとの出会いなのかもしれない。

 もちろん、いきなり怖い人がやってきて、メンチ切って「覚悟を決めろ」とすごまれたら、その時は誰だって「暴力はやめてくれ!」と思って従うだろう。
 しかし、番組を見た人ならわかるはずだけど、ワンステップスクールに連れて行かれると、自分と同じひきこもりの人たちとの共同生活が始まる。
 そこで、交代制で食事を作ったり、朝早くから運動をしたり、就職活動をする中で自分の役割や価値に気づき、結果的に仕事に就くことになる。
 つまり、社会との安定的な関係につながり、居場所を獲得できるチャンスが提供されるのだ。

 もちろん、ワンステップスクールに連れて行かれた当事者たちが全員、彼ら自身が望むような幸せにたどりついたかどうかは、わからない。
 しかし、「結果オーライ」だと思って働いている「元ひきこもり」は実在する。
 番組に落ち度があったとしたら、ワンステップスクールの就業の成果が他の支援団体と比べてどれだけ優れているのかどうかについて、数字や当事者コメントなどで明らかにしなかった点だろう。

 斉藤氏らは、番組がひきこもり当事者を「犯罪者予備軍」のように語っていた点を、人権の観点からも問題にしていた。
 だが、若者の死因1位が自殺である現実が長引いている日本では、自殺したくても死ねずに、死刑を望んで無差別大量殺人を試みた人たちが少なからずいた事実は否めない。


インテリもヤンキーも満足度の低い活動から成長しよう!

 斉藤環氏は、ヤンキー系の団体の支援活動を「支援という名の暴力」と呼び、ヤンキー文化を「反知性主義」と批判していた。
 しかし、穏健派を自称して居場所支援をしている団体も、「支援という名の権力」を行使し、「反当事者主義」を改めようとしない。
 親や世間、学術や医療を味方につけて、ひきこもり当事者の周囲を四方八方固めてしまい、「社会に歓迎される良い子」の鋳型に押し込めようとする同調圧力は、暴力以上に怖い権力装置だ。

 権力は、暴言や怒号、恐喝まがいの態度が無い分だけ見えにくいから恐ろしい。
 やさしさで居場所を提供しても、自室にはこもらなくなるものの、無職や孤立のままでは、いたずらに人生の大事な時間を奪われてゆく。
 お仕着せの「居場所」では、ひきこもり当事者が必要とされている実感を得にくいし、存在価値を評価されるチャンスも乏しいし、立派に生きてる人たちに囲まれてげんなりする気分になっても、せっかく自分のためにあれこれ無償で動いてくれるスタッフに不満も言い出せない。

 それは、当事者の首を真綿で長い年月をかけてゆっくりゆっくり締め上げてゆくような環境だ。
 ひきこもり当事者の平均年齢が高齢化しているのも、自分にしっくりくる「支援」が身近にないことが大きいはずだ。
 だから、支援団体との関わりを避け、再び孤立を深め、自殺へと導かれる人もいる。
 その数が推計できないほど水面下で多いことを考えると、たった2件しか死亡事故が起きていないヤンキー流の支援は、むしろ評価する余地があるといえよう。



 もっとも、「反知性主義」を批判する人も、 「反当事者主義」を批判する人も、ひきこもり当事者から見れば、同じ程度の価値にすぎないし、実際どっちでもいいと感じているはずだ。
 なぜなら、一方的な支援は結局、支配関係になりがちだからだ。
 これは、ひきこもりだけでなく、障がい者や難民、ホームレスなどの社会的弱者の支援も同様。
 ひきこもり支援で、活動団体が「居場所」を提供しても、そこを「自分の居場所」と感じられなかったり、団体が自分のことをどうしても必要としているという見込みがなければ、足を運ばない。

 実際、全国各地にさまざまなひきこもり支援団体が乱立しているが、内閣府で70万人、厚労省では255000人と推計されるひきこもり当事者のほとんどは、支援団体に足を運んでない。
 わが子のひきこもりに悩んでいる親の集まりは多いが、当事者自身が思わず足しげく通いたくなるような「当事者ニーズに合った支援」が圧倒的に少ないからだ。
 団体が活動のあり方における敗北を認めない限り、当事者にとって希望は生まれないだろう。

 そもそも、「居場所の提供」は、本当に支援なのだろうか?
 その活動の維持には、人件費や家賃など莫大な金が出て行くだけだ。
 しかも、一番切実に苦しんでいる当事者であるひきこもり自身がお金や労力などの対価を喜んで払うことがなく、親が金を出したり、寄付者や国からの助成金が投入されている。
 これは、変だ。
 なぜ支援者・被支援者の枠を超えて一緒に同じ汗をかいて協働し、「みんなで楽しく有益な仕事を作って稼ぎだす」という面白さを共有しないのか?
 それを思うと、支援者が自分の能力の限界に居直って、自分のできる範囲でしかひきこもり当事者を受け入れたくないという構えをとってるようにしか見えない。

 体を張って責任をとる人間と、表向きだけは「やさしいきれいごと」を言って実際には弱者のクビを真綿でゆっくりと締め上げる活動に居直る人間を比べるなら、僕は前者に共感する。
 腫れ物扱いや弱者扱いで支援活動をすれば、支援者側の都合が被支援者より優先される。
 その権力的で支配的なつきあいの方が、当事者の発言権や判断の主体性、当事者固有の価値を「良かれと思って」奪ってしまう分だけ、暴力よりはるかに恐ろしい。

 無職者への支援は、雇用されることだけに限らないはずだ。
 その人が思わずやりたくなる仕事を新たに作り出せるような起業支援ができなければ、誰もしたがらない求人の職種に無職者をあてがうことになる。
 低賃金の介護職などの仕事へ導くのも、求人が多いという業界事情に合わせただけ。
 それは支援ではなく、ブラック企業への斡旋にすぎない。
 ひきこもり問題を突き詰めていくと、「資産」あるいは「職業技術」という金の問題に帰結する。
 金があれば、自分が尊敬や信頼、安心の対象としている誰かと交流できるチャンスが確保されるが、資産もなく、自分が思わず楽しくなってしまう作業を収益化できるノウハウを学べる機会もなければ、当事者は孤立したままなのだ。
 その現実をふまえるなら、たとえ当事者が「自立したくない」と主張することは、「自由になりたくない」と言ってるのと同じだ。
 それを当事者に早めに理解してもらえるように努める必要はあるだろうし、そのためのスキルが支援者に求められる。

 もちろん、不自由を選ぶ人生もある。
 だが、それは自分以外の金でしか生きられないペットになる大変さを覚悟しなければならない。
 それは、ひきこもりに限らず、不登校や児童虐待、ニートや障がい者などの問題も同様。
 当事者がマイペースで無理なく将来展望を解決するには、自立の方法を教える必要がある。

 自立とは、自分がワクワクできるような自分のしたい仕事を自力で作り出し、飯を食えるようにすること。
 学校では事実上、それは無理だから、民間の塾で教えたり、本に書いて教えるしかない。
 自力で自分を救える知恵を伝えるのが、本来の福祉のはずではないか?
 支援活動の方法論をめぐってインテリとヤンキー間の文化摩擦にこだわるより、両者がひきこもり当事者にとって利益になる対話へと歩み寄ってほしいと思う。

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 長期化するひきこもり当事者の「その後の人生」

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