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■社会起業は生きづらい「社会の仕組み」を変える仕事

 最近、ソーシャルビジネスを拡大解釈して看板に掲げたがる事業体が増えてきてる。
 それだけ「社会起業」(ソーシャルビジネス)がキラキラした看板だからなのだが、そもそもふつうの起業家と社会起業家のどこが違うのかがわからず、社会貢献をしてるだけで持ち上げる風潮は、本物の社会起業家の新しさを見えなくさせてしまう。

 ソーシャルビジネスには、社会性・事業性・革新性の3点が必要条件になる。
 そこで、今回はソーシャルビジネスの「革新性」に絞って、解説してみよう。
 革新性とは、「従来のよのなかの仕組み」のままでは生きづらい人を救うために、「新しいよのなかの仕組み」を作り出すこと。

 たとえば、核家族が当たり前の今日では、幼い子が急に熱を出したら、正社員の親はそのつどわが子を迎えに行かなければならない。
 そういうことが続けば、会社から「正社員ではなく~にしたらどうだい?」と肩を叩かれかねない。
 子育てを親の自己責任にする「従来のよのなかの仕組み」では、生活を維持していける安心感は保てないのだ。

 かといって子どもを預かるハコモノを建てれば、今度は人件費を含めて維持費は税金で負担することになり、ただでさえ財源に事欠いて借金と増税で経営されている国や自治体では、ニーズを満たせるほど増設することは難しいし、そうこうしてるうちは子どもは小学生になってしまう。
 こういう社会的課題は全国にあるわけだから、どこか特定の町だけのローカルな苦しみではない。

 そこで、子育てと仕事の両立を無理なくできるよう、AsMama(アズママ)という社会起業家は、1時間500円程度で子どもを預かり合えるよう、地域の中に気の合うママが見つけられる参加無料のイベントを開催し、同じように子育てをしているママどうしの間に出会いと関係を作り出す。
 そのことによって、いざとなったら安心して子どもを預かってもらえる仕組みに育てるのだ。

 この仕組みは、すでに全国各地に急増中で、「子育ては親だけが苦労するもの」という生きづらい常識を改め、「子育ては隣近所でシェアし合うもの」という生きやすい新常識に塗り替えている。
 これぞソーシャルビジネスにおける「革新性」であり、社会を変えるということなのだ。
 他にも、たとえば「学力が高いほど高所得の仕事に就ける」という仕組みがある。
 この仕組みは、「学力が低いほど低所得の仕事にしか就けない」と言い換えられる。
 そこで、革新性のソーシャルビジネスを起こそうとするなら、「学力が低くても高所得の仕事ができるようになる」という仕組みを作り出すことがミッションになるはずだ。

 ところが、さまざまな事情で人並の学力を身につけられないために低学力のままにさせられている子どもの学力を高くすれば、課題が解決できるかのように誤解している「自称・社会起業家」は少なからずいる。

 そもそも、よのなかにはどんなに教育投資を施されても、学校で教わる教科の勉強が向いていない子はいるし、学校では「稼ぐ力」を身につけられないので、学力=稼ぐ力にはならない。
 そもそも学校は、自分で仕事を作り出せない人のために「会社に就職する」という選択肢を押し付けている場所であり、稼ぐ力は学力偏差値とは別次元の能力である。

 だから、偏差値では底辺に属する養護学校を卒業する障がい者でも、佐藤仙務さんのように重度障害者でも仲間と一緒に起業したり、ミライロのように障がい者だからこそ困ってしまう建築スペックに対してコンサルティング事業で収益を得るソーシャルビジネスを手掛ける人の方が、福祉作業所に通所する同じ属性の障がい者よりはるかに高い所得を得ている。

 そのこと自体が、「障がい者は社会から一方的に支援されるもの」という従来のよのなかの仕組みを、「障がい者は障がいを知らない社会を生きやすくする」という新しい仕組みへ変えている証拠だ。
 つまり、社会起業家とは、社会変革の担い手なのだ。


「良いもの」とされている従来の常識を疑おう!

 アメリカでは社会起業家のことを「Change Maker」(従来の社会の仕組みに変化を作り出した人)と呼ぶ。
 既存のよのなかの仕組みでは生きづらいからこそ、新しいよのなかの仕組みを民間事業で作り出そうってことなのに、仕組みをそのままにしておきながら、「僕らかわいそうな人を救ってますよ」と”ソーシャルビジネス枠”でメディアに出るとしたら、世間受けしたいだけの恥ずかしい作法だ。

 それが理解できると、一部のメディアで持ち上げられている社会起業家にニセモノが混じってることにもピンとくるだろうし、これまで持っていた違和感もスッキリするはずだ。
 ニートにスーツをあてがって、面接で通るための練習をさせ、就職させたからといって、本当にニート自身は心の底から喜ぶだろうか?
 世間からの同調圧力に負けて仕方なく従来の社会の仕組みに自分を合わせたところで、エヴァのTVシリーズの最終話のようにみんなから「就職、おめでとう」と言われても、どこか納得できない気持ちを残尿感のように抱くのではないだろうか?

 そのように、「一方的に支援される当事者」という構図を見た時、それが新しい事業でもなく、当事者満足度の高いと保証されたわけでもなく、ただの従来型の社会貢献事業にすぎないことを思い当たろう。

 学校文化や企業文化は一義的に「良いもの」とされがちだが、その文化にそぐわない人にとっては自分らしさや自尊心を毒されるのと同じだ。
 だからこそ、学校文化や企業文化に毒されないで生きられる仕組みを作り出すことは、誰にとってもセーフティネットになりうる。
 そのように、「良いもの」とされている従来の常識を疑い、従来の社会の仕組みによって生きづらい当事者たちの中に価値を発見するところからしかソーシャルビジネスは始まらないし、社会を変えることなどできない。

 たとえば、虐待されている子どもは、一方的に保護対象とされるため、彼らの親の親権から自分の意志で逃れることができない。
 子どもが自分の親に対して「親権停止」を児童相談所に求めれば、親権が一時停止され、子ども自身が自分で里親を面接し、自分の育てられたい親を選べる仕組みがあれば、親子は対等な関係になり、子どもを虐待する真似はできなくなる。
 子どもには参政権がないので、法律を変えるには大人たちが虐待に関心を持たなければ、いつまでも既存の社会の仕組みによって虐待され続けるだけだ。

 法律ほど、従来の社会の仕組みの中で厄介なものはない。
 実際、子どもを救う法律の改正には、何十年もの年月がかかるかもしれない。
 だが、改正を待たずに民間の知恵によって被虐待児を救い出せる仕組みを作り出せたら、それこそソーシャルビジネスと呼ぶに値するだろう。

 大企業からばく大な金をもらって、毎年同じように児童虐待防止の啓発キャンペーンをやり続けては虐待防止の成果を出していない人たちの愚かさに、スポンサー企業は気づいた方がいい。
 むしろ、虐待の当事者親子に寄り添い、当事者たちの苦悩を一緒に取り除く事業をするなら、当事者を一方的に「被支援者」に仕立てる愚かな真似はしないだろう。
 「解決してもらう」受け身のままでは、どんな支援も支配に変わるし、受け身でいることは「申し訳無さ」を当事者に与え続けるだけだからだ。

 このように、一部の人を一方的に負け組や被支援者に貶め、生きづらさを与えている「既存の社会の仕組み」は、山ほどある。
 それは、不当にガマンしているのに、「ガマンするしかないのかな」と個人的に耐え続けてるようなことだ。

「前科者だから、表立ったところでは働けない」
「難民だから、日本人と同じような基本的人権を求めるのは申し訳ない」
「自分が望んで離婚したひとり親だから、他人様や社会の手を借りるのは忍びない」
「低学歴だから、高所得を望んではいけない」
「もう長らく無職者だから、世間に顔向けできない」
 …などなど、不当なガマンを強いられている人が、経済大国3位の日本には大勢いる。

 だが、前科者だからこそ犯罪に手を染めてしまいそうな人に説得力のある防犯スピーチができるのかもしれないし、難民だからこそ生き延びるための生活の知恵をたくさん蓄積しているかもしれないし、ひとり親だからこそ離婚率が高まる日本で既婚者が備えておくべきことを知ってるかもしれない。

 つまり、当事者自身が自らの価値に気づくことから、当事者が望む社会が実現できるのだ。
 これを「当事者主権」と呼ぶ。

 誰かを一方的に「弱者」と決めつけず、むしろ当事者にしかない固有の価値を掘り起こせば、彼らの人生をマイナスからプラスへ変えられるチャンスが生まれる。
 本物の社会変革者がソーシャルビジネスが手がける時、必ずこの「当事者固有の価値」を発見したうえで課題解決の仕組みを作り上げている。

 でも、これって、ソーシャルデザインやソーシャルビジネスを教える学校で、ちゃんと教えられているかしら?

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