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■毒親の呪い ~魔法がとける、ということ

 日本人には、総じて自己評価が低いという傾向がある。
 傾向だから例外もいるわけだが、自己評価が低い人が自分より弱い人を支配する時は、「自分を支配しているよのなかの仕組みに従え!」という構えになりがちなのだ。

 親自身が自己評価が低いと、自分自身の不安や心配で子どもを平気で縛りつけ、脅す。

「大学に入らなければ、高い給与をもらえないぞ」
「おまえなんかが、○○のプロになれるわけないだろ」
「テレビに出てる有名人が、おまえの友人であるはずがない」

 …など、それはもう「毒親の呪い」と言った方がいい言葉を、わが子が小さい頃から「良かれと思って」浴びせ続ける。
 言葉だけならまだしも、金の力にものを言わせて、「予備校の授業を入れたから通え!」と進路まで先回りして決めたり、親権という権力にものを言わせて「バイトはさせないぞ」なんてことまでする。

 しかも、そうした言動は必ず世間のみなさんが支持しやすい「正義」や「親心」の論理に基づくのだから、自己評価の低い親を改心させようとしたり、反省や謝罪を求めれば、いつまでも子どもが傷つくだけなのだ。

 そうこうしてるうちに、子どもは大人になる。
 大人になっても、「おまえなんかが~」という否定の言葉が頭から離れない。
 ガチガチに縛られていた家から離れ、一人暮らしを始めても、もうすっかり自分の人生を自由に設計していいはずなのに、今度は何をしていいか、わからない。
 毒親の呪いが、何を始めようにも「おまえなんかが~」の声を響かせ、踏み出せなくしてしまうのだ。

 それでも、人生は続いてゆく。
 自分がしたいことでなくても、働かなくては生きていけない。
 しかし、やりたことを封じられたままでは、どこか空しさを持て余すことになりはしないか?
 あるいは、その空しさを見ない振りしてやり過ごそうとしても、気が付けば自分自身が弱い者を自分の親と同じように支配しようとしてしまわないか?

 そんな不安を感じさせる事件が、立て続けに起こっている。




●親以外の人々たちから、「ありがとう」をもらおう

 支配(コントロール・パワー)は、常に弱い者へ向かう。
 支配欲求を持て余す人が増えれば、地域にいる猫を殺す事件もおこるし、借金苦に悩んで高齢の親を殺す事件もおこるし、口うるさい母親を子どもが毒殺しようとする事件もおこる。
 支配は「自分より弱い存在」へと受け継がれていくが、弱い者は殺されてしまうのだ。
 毒親の呪いは、本当に恐ろしい。

 寺山修司は、自身が監督した映画『田園に死す』のラストシーンで、こう問うた。
「どこからでもやり直しはきくだろう。
 母だけでなく私でさえ、私自身が作り出した一片の物語の主人公にすぎないのだから。
 そしてこれは、たかが映画なのだから。
 だが、たかが映画の中でさえ、たった一人の母も殺せない私自身とは、いったい誰なのだ」

 寺山は、死ぬまで母親を捨てられなかった男だ。
 「母一人、子一人」の家庭で母の子育ての苦労を知っていたからこそ、彼は逃げ切れなかった。
 寺山の母は、わが子によって自身の子育ての苦労が報われる人生を望んでいたから、息子の死すら受け入れなかったぐらいだ。

 寺山は『家出のすすめ』を書いたことで有名だが、家出できなかった人なのだ。



 家出とは、親に無断で、親の知らない場所へ移住し、親の期待から解放される「避難」である。
 親の心配や期待、不安に応えなくてもいいと、自分自身を解放することだ。

 それは、自分で自分の人生を自由に設計することでもあるけれど、同時に自分が誰によってほめられたらうれしいのかを知り、ほめられたい相手にほめられる仕事をすることによって、自分の人生から親の存在を不要にしていくことでもある。

 親というのは「育ちの伴走をする役割」であって、子どもが親以外の誰かと「ほめる・ほめられる」関係を成立させれば、その役割が終わる。
 子育て自体が、「家出のススメ」なのだ。
 親とは、捨てられるのが仕事なのだ。
 それに気づかない親は、「毒親の呪い」を無自覚にわが子にかけてしまうだろう。

 だから、親という役割に気づかず、自分の不安を子どもで解消したがる親から避難する家出は、精神的自立をさせるためのチャンスになる。
 もっとも、家出しなかった人の場合、親が高齢になって亡くなったり、すっかり要介護者として施設で余生を送り出して初めて「もう親のことを考えなくてもいい」と思えるようになることがある。

 ただし、長年「おまえなんかが~」という声によって自発的な意思を殺されてきた人は、親がいなくなったとしても、自己評価の低さが心の片隅にこびりついたまま、それをより若い人や自分の子どもに受け継がせてしまいかねない。

 だからこそ、自分が(親以外の)誰に認められたいのかを自覚して日々の仕事をすることが大事になってくる。
 物書きなら「読者に認められたい」と望むのが仕事だろうし、ミュージシャンならリスナーだろう。
 専業主婦なら、夫や子どもかもしれない。

 人生で一番時間と労力を使う「仕事」の中で、自分の収入を作ってくれるお客さんにとって満足度の高い仕事の中身を考え、実行し、試行錯誤を重ねてゆく中で、「ありがとう」と言われる日がいつか来る。
 自分の生活のためだけに働いてるという感覚のままでは、「ありがとう」の声が「おまえなんかが~」の声を打ち消す日は来ないかもしれない。
 しかし、お客さんのニーズをちゃんと知ろうとすれば、ニーズをもっと知ろうとすることが会社からも求められている通常業務なのだと気づくなら、「ありがとう」の声は次第に大きくなっていくだろう。

 そして、「ありがとう」という声に自分自身が「ありがとう」と素直に感じられるようになった時、毒親の呪いという魔法がすっかりとけていることにも気づくだろう。
 親のようにならない生き方は、できるのだ。
 世界は、親以外の人々に満ちている。

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