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■常見さんと駒崎さんのツィートで考えた「ひとり親家庭」

 最初に、センチメンタルな記憶を書いてみたい。
 小学校の低学年の頃の話だ。

 当時、同じクラスに母親しかいない友人がいて、ある時、彼は僕の持っていたミニカーを「いいなぁ。いいなぁ。俺にくれよぉ~」と冗談めかして言った。何度も言った。
 そのミニカーは、僕が親からもらった少ないお小遣いで買った大事なコレクションだった。
 でも、彼にあげないとなんだか悪いような気がして、迷った挙句、帰り際にあげてしまった。

 帰宅すると、母親から「あのミニカーは?」と聞かれた。
 「あの子にあげたよ」と答えると、「今すぐ返してもらいなさい」と叱られてしまった。
 友人が「片親」と噂で聞いていた母親は、幼い僕が同情からものをあげてしまったことを見抜いていたのだ。

 もちろん、その時はそういう説明を母から受けてはおらず、釈然としない気持ちと、一度あげたものを「返して」と言うつらさに揺れながらトボトボ歩き、友人宅の玄関で「お母さんが返してもらってこいって…」と言う時には、僕はすっかり涙目になっていた。
 友人は、「そうか」と言っただけで、あっさりミニカーを返してくれた。
 それ以来、僕はそのミニカーへの愛着を失い、新しいミニカーを買う気にもなれなかった。

 子どもというのはたくましいもので、そういう一件があっても、日々を重ねていくと、僕と友人との付き合いが壊れることもなければ、ことさら深まるわけでもなく、仲良く小学校を卒業していった。
 なんで、こんな話を思い出したかというと、母もしくは父のいない「ひとり親」の家庭を支援するという「ひとり親を救え!プロジェクト」について、twitter上で以下のようなやりとりがあったからだ。

●当事者だからこそ持つ「複雑な思い」


 ひとり親の貧困は子どもの教育機会を奪い、子どももまた貧困となっていく「負の連鎖」がある。

 この状況を打開するために、「ひとり親を救え!プロジェクト」では、児童扶養手当の加算額を1万円に増額してほしいと政府へ要望する署名を集めている

 このプロジェクトのメンバーに、病児保育のNPO法人フローレンスの代表理事・駒崎弘樹さんが入っていることから、常見陽平さんは下記のようなツィートをした。

 常見さんは、自身を「ひとり親家庭出身」と告白しつつ、以下の意見を述べた。
「ひとり親家庭」への差別、偏見を分かっているのかというのと、誰も好き好んで選んでいないぞとか、とはいえ、こういうキャンペーンも丁寧に説明しないと ひとり親家庭への誤解をさらに広めないかと複雑な想いがある
私は、母子家庭出身であることを積極的に発信することにしている。母子家庭出身者を少しでも応援したいからだ
私はちっとも貧しい母子家庭ではなかった。母親が馬車馬のように働いたからだ。本当に感謝している
シングルマザーの貧困はよく分かっているつもりなのだが、「ひとり親家庭」=「貧しい」という印象操作になっていないかということをもっと意識して頂きたい
告知文にひとり親家庭への配慮がないことに、もっとみんな首をかしげた方がいい
こっちの告知文はまともなのだけどね。駒崎さん、本当は、ひとり親家庭を見下しているんじゃないですか? ひとり親家庭出身者として抗議します

●当事者の声を否定して、誰のための支援が成り立つの?

 常見さんは、上記のツィートの後、『ひとり親家庭は応援するが、「ひとり親を救え!プロジェクト」を応援しないことにした』というブログ記事を発表した。

 当事者ニーズについて関心が足りない言動は、当事者を不当に傷つけることもある。

 常見さんの子どもの頃を想像すれば、彼は「片親」というだけで近所の噂や不当な差別などに苦労したかもしれない。
 わが子が不憫な思いをしないで済むように、親がどれだけ奮闘してきたかも、彼は幼い頃からずっと見てきたはずだ。
 少なくとも両親がそろってることを「ふつう」と考えがちの多数派(=非・当事者)は、そうした「ひとり親家庭の当事者でなければ知りえない境遇」を配慮することを忘れがちだ。
 当事者の常見さんが貧しさを印象づけるプロジェクト名に違和感を持ったのなら、彼の気持ちに真摯に向き合うのが、「支援」を標榜する人にとって必要な構えだろう。

 だから、その責任を負う形で、その記事ではプロジェクトを進める人たちに戦略を問うた。
 政府に要望を通す確かな戦略がないのなら、人を巻き込むのは端的に無責任だからだ。

 それに、貧しいひとり親家庭の当事者の声に裏付けられてない内容を政府に勝手に働きかけてしまう人がいれば、困るのは当事者だ。
 駒崎さんを含め、プロジェクトメンバーの方々には早めに戦略を明らかにしてほしい。
 同時に、統計数字だけを根拠にせず、支援を求めてるはずの「貧しいひとり親」たちの声をプロジェクトの公式サイトで明らかにしてほしい。

 当事者の声は、具体的かつ多様なはずだ。
 そうした肉声に担保されず、政府の公式発表を鵜呑みにしただけ(=日頃から貧しいのひとり親家庭の当事者たちと深く付き合っていない)なら、僕は署名への賛同を取り下げたいと思う。
 今回の常見さんと駒崎さんのやり取りを見て、僕と同じように考えた人は少なくないはずだ。

●「当事者固有の価値」を知ることから、貧困の解決は始まる

 僕は、「支援」という言葉が嫌いだ。
 被支援の相手に対して、上から目線の構えを温存しかねないからだ。
 一方的に施されるばかりなら、支援される側は「物乞いになれ」と言われてるように感じるかもしれないし、そうなれば立場も誇りも失うだろう。

 当事者自身が切実に望んでるものがハッキリとつかめないうちは、「貧しくて弱いおまえには支援が必要だろ」という構えはやめたほうがいい。
 その構えがどれだけ被支援の当事者の立場と気持ちを支配してしまうか、想像しよう。
 統計数字だけで導き出した正論は、それだけで人を傷つけることがある。
 そうした配慮を大事にできないなら、支援は容易に支配に変わるのだ。

 「支援=被支援」という上下関係ではなく、対等な関係を大事にしたいなら、片方では支援しても、もう片方では自分自身も支援されるようなイーブンの仕組みを作るだろう。

 大阪でホームレス支援(※実質的には元ホームレスの生活保護受給者とNPOとの協働)の成功事例を積み上げている大阪のNPO法人Homedoor(ホームドア)では、公式サイトに元ホームレスのおっちゃんが顔も名前も出して、Homedoorの活動を応援している。

 一緒にビジネスをがんばってくれたHomedoorに対して、仲間として一緒に働けた誇りを得たからこそ、自分の黒歴史も顔も名前も出せるのだと思う。


 誰かと対等な関係を築こうと思えば、一方的に支援を施してやろうなんて気持ちにはなれない。
 むしろ、一緒に同じ汗を流し、同じ目標への達成努力を分かち合いたいと望むだろう。

 どんなに貧しかろうが、どんなにハンデのある暮らしだろうが、「社会的弱者」は一方的に支援されるような「完全に無力な存在」ではない。
 むしろ、「彼らには何もない」と貶める視線こそが、当事者自身があらかじめ持っている固有の価値についての関心を見失わせる。

 世界で一番有名な社会起業家であるムハマド・ユヌス氏は、文字も読めない貧しい農村の女性たちと深く付き合う積み重ねの中から「女性どうしの連帯」(信頼の根拠)という価値を発見し、マイクロクレジットによる融資と起業教育によって、彼女たちと共に貧困から立ち上がる仕組みを作り出して成功し、ノーベル賞を受賞した。

 日本に「ひとり親家庭ゆえに貧しい人」たちがいたとして、彼ら当事者自身が望むことと“当事者固有の価値”が明らかでないまま、彼らと一緒に立ち上がる仕組みは作り出せるのだろうか?


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