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■第5の虐待 「文化的虐待」を考える

 子ども虐待には、身体的虐待、心理的虐待、育児放棄(ネグレクト)、性的虐待の4つがあるとされている。
 だが、「文化的虐待」というものもあると思う。

 暴力を振るわれたわけでもなく、心理的に追い詰められる悪意のある言葉で責められたわけでもない。
 もちろん性的な虐待でもなく、ネグレクトというわけでもないのに、誰かとの関係がつらいと感じる人と、「文化的虐待」という言葉を共に考えたい。


●文化的虐待は、子育て現場から社会の隅々に…

 たとえば、高卒の両親がわが子を大卒にまで育て上げたとする。
 両親は高卒までの社会観しか持ち合わせておらず、しかもそれが時代遅れの古い社会観であるため、子ども側が当たり前に信じている今日の価値観と相反してしまう。

 両者には、大きな文化ギャップがある。

 たとえば、高度経済成長の右上がり幻想から降りられない親は、「より大きな企業に就職しておけば老後まで安心だ」と考える。
 だが、子どもは「大企業でも大型リストラや分社化が進んでるのだから、せめて自分のやりがいのある仕事を第一に考えたい」と望んでいる。

 ここで、親との関係を悪くしたくない子ども側にとっては、そのギャップの大きさがコミュニケーションを成り立たせにくくするのだ。
 しかも、親子関係が「親を大事にしなさい」という世間からのまなざしによって上下関係=支配関係になっても是とする日本のような社会では、子どもの言い分はいつまでも「幼い言い分」とみなされ、親の言い分はいつまでも「親心で言っている成熟した言い分」とみなされてしまう。

 世間という力に支えられている親と、孤軍奮闘する無力な子どもとの間には、はっきりとしたコントロール・パワー(支配欲求)が働く。
 それでも、親が新興宗教やマルチビジネスなどにはまっていたり、ヤクザや企業舎弟、過激な政治団体などの「反社会集団」にどっぷりと関わっていることが誰の目にも明らかなら、「一般的な考えを持ちにくい環境を強いられてる子」としての同情や理解が得られるチャンスが無いとは言えない。
(もちろん、それでも救済の手は誰からも差し伸べられないため、子ども側の苦しみは変わらない)

 ただ一方で、親がそうした「反社会集団」に関わっておらず、むしろ世間受けしそうな政治家や教師、地元の有名企業御経営者や弁護士、医者などといった職種で有名だったり、地域社会の中では浮きもせず目立ちもせずといった「ふつうの親」の場合、その子どもは「あんな良い親なのに」という世間からのまなざしによって、自分が文化的虐待の被害者として自認することをためらうように仕向けられる。

 子どもをめぐるこうした社会環境そのものを「文化的虐待」としてとらえ、社会問題として提言する必要がある。
 子どもの生き残る権利を大事にしたいなら。
 親が「良かれ」と思ったことは、それが子どもにとってどんなに苦しい教えであっても、飲まなければ「親不孝」として世間から指弾されてしまうのだから、苦しむのは子どもばかりだ。

 しかし、東京から全国へニュースを発信する大手の新聞社やテレビ局で働く人たちの多くは、保守的な高学歴インテリ文化層におり、同時に「親のことを悪く言うなんて幼い」という世間からの風を苦しいと感じなくても済む生い立ちだったりする。

 ごくたまに、「文化的虐待」を受けた当事者としての自覚のある人もいるが、「社内」という世間の中で彼らの声は大きくならないまま、世論形成の仕事なのに、それが満足にできない日々と孤独に甘んじている。

 このように、既存の4つの虐待が、親自身が内心では大なり小なり罪悪感を秘めているのに対して、文化的虐待は「良かれ」という親心から動機付けられているため、とてもタチの悪い虐待となり、同時に世間からも指弾されにくい。
 こうして文化的虐待は、親子関係だけでなく、社会のあらゆる関係の中に刷り込まれていく。

 たとえば、高学歴インテリ文化層と低学歴ヤンキー文化層では、端的に文化の質が異なるだけなのに、前者は後者を引っ張り上げようと「支援」のまなざしを向けてくる。
 学校を中退するだけで「かわいそう」という視線を向けられ、低学力・低学歴という1点だけで就職や商談の際に過小評価されてしまう。

 経済的に余裕のある所得層は、出しても困らない程度の金を貧困層や社会的課題の解決に「恵んでやる」。
 わが子が実家にひきこもったら、親は「かわいそうだから」家から追い出すことさえしない。
 もちろん、親自身が自ら家を出て、わが子に自立の仕方を教えることもない。
 そして、ひきこもりは、ひきこもりのままになり、自立を怖がるようになる。
 それでも、親には「家」という資産があるので、自分自身は何も困らない。

 持てる者が、持たざる者へ「良かれ」と思って行われる支援は、容易に支配になるのだ。
 同様のことは、先進国と途上国との間にもおこる。

 アメリカはインディアンという原住民がいたのに「発見」され、「新大陸」と呼ばれた。
 今なおアフリカは、「近代化」という名の下で資源を先進国に食い荒らされている。

 身近な例で言うなら、医療や看護、障害者福祉、児童福祉、高齢者福祉などの介護現場でも「支援」の名の下に支配的な関係を強いることが制度上、許されている。

 医療なんて、ひどいもんだ。
 「素人は黙って、専門家の言い分を聞いていろ」という支配の構えを疑わない医者も珍しくない。

 手塚治虫の名作マンガ『ブラックジャック』には、空港建設の反対運動の被害者が自分の耳を聞こえるようにし、騒音に耐えることで苦しみの連帯を選ぶという話があった。
 医者の仕事は患者を健康にすることでなく、患者の望む幸せを作るお手伝いにすぎないのに、患者のニーズを聞かないうちから「医者として放置はできません」の一点張りで検査や入院の手続きを進めてしまう医者もいて、医療費はいたずらに膨れ上がるばかり。


●「力のある人」が作る社会は、生きずらい

 それでも、一方的に「支援」される側の当事者の声は制度設計になかなか盛り込まれず、バリアフリー新法ですら障がい者の当事者にとっては満足度の低いものになってしまった。
 支援される側の自尊心や内在する「当事者固有の価値」については、関心を向けられるどころか、最初から想定されていない。

 対等ではない関係でも困らない人たちが、制度設計の担い手になっていると同時に、現場で働く「支援」側の人々も思考停止しているからだ。
 同様のことは、国家と自治体との関係にも言える。

 国からの補助金を毎年受け取ることなしには運営できない「3割自治」のまま、地方自治体は国に対して物言えぬ立場に甘んじている。
 そのため、基地・原発・核のごみ処理施設などを押しつけられる際は、新たな補助金を欲しがってしまう。
 これはもう、「覚せい剤をくれ~!」と赤い目をしてねだる「シャブ中の依存症患者」と同じ。

 それでも、政治家や官僚は「良かれ」と思って補助金をつけるし、それが「お互いのため」だと思う以上の発想はしない。
 余計なことを考えて困るのは、自分だからだ。
 何も考えない方が、楽に仕事ができるからだ。

 その結果、力のある者は「上から目線」を温存できるし、見下ろされた側は「シャブで観てる一時的な夢だ」という認識を失ってゆき、物乞いのように金を受け取って多幸感におぼれてしまう。

 このように、「上から目線」に無自覚な人たちは、自分より低い相手と対等な関係を結ぼうなどとは考えず、もちろん一緒に汗を流すこともせず、遠巻きに安全圏から「良かれと思って」困ってる当事者を困ってるままにしてしまうのだ。
 それは、共依存の押し売りそのものなのだが、「上から目線」がデフォルトになっていると、共依存と協働を区別することが動機付けられない。

 そんなことを峻別しなくても、「上から目線」でまったく困らない立場にいるからだ。
 すると、困った人は困ったまま生きることになる。
 「上から目線」の人々は、それでも何も困らない。
 それどころか、何か困ったことがあれば、一斉に自分たちだけは安全圏に逃げまくる。

 戦争が起きれば、自分たちだけは戦場に行かないし、原発事故が起これば身内だけを連れて海外逃亡
 こうした歴史的事件の「暗部」は、教科書には載らない。
 国家にとって都合の悪いことを載せない力を発揮できるのが、「上から目線」の人たちだから。

 たとえば、自衛官の自殺率は国民平均の1.5倍も高いが、自衛官の資質を精査しなければならない「採用する側」の責任は問われない。
 こうした支配関係のはびこる社会では、困ってる側の当事者たちは、生きづらさが最大化してしまうと、自分が死ぬか、自分を追い詰めた誰かを殺すか、自分を支配する人との関係から離れるかの選択をせざるを得なくなる。

 そうした殺伐とした社会のありように敏感であれば、そうした社会の「仕組み」そのものを更新する必要性にもピンと来るだろうし、ソーシャルデザインに対する関心が若い世代に広がってることにも思い当たるだろう。

 なので、本当は文化的虐待とは何かについて1冊書いてみたいが、気の利いた編集者がいれば、お話をしてみたい。



●文化的虐待の本に関心のある編集者はどこに?

 文化的虐待は、コントロール・パワー(支配欲求)を発揮し合う「共依存」の関係を温存する社会から、多様な文化を受容しながら誰もが生きやすい社会へ移行しようという普遍性のあるテーマだ。

 摂食障害などの依存症全般は、支配関係を社会自体が温存する「文化的虐待」の産物だと言えるし、どんなに危険な仕事でもそれを選ぶ人が出てくるのも「それ以上の不幸」を以前に経験した証だ。

 僕が「当事者固有の価値」について『よのなかを変える技術』(河出書房新社)で重要だと書いたのも、当事者それぞれの多様な特性を社会の側が受け入れて役立たせる「仕組み」が生きやすくなるのに必要不可欠だからだ。

 どんな虐待でも、虐待されたことで加害者を恨み続ければ、加害者との関係に人生を吸い取られてしまう。
 そのままだと、憎しみの世代間連鎖は、子や孫の世代までずっと続く。
 僕らは「同じ痛みの連帯」によって人を憎みによる呪縛から自分を解き放ち、自分だけ損する現実から抜け出し、誰かに加害を動機付けた「よのなかの仕組み」を発見し、より生きやすい仕組みへと更新する必要がある。

 その「更新」という仕事こそ、苦しんできた当事者の痛みを癒すものだろう。
 更新することに労力と年月をかければ、憎しみや痛みは一時的にでも忘れられるかもしれない。

 もちろん、許せない相手を無理やり許そうとする必要はないが、つらかった過去を新しい楽しさによって忘れてしまうという選択も、被害当事者の権利のはずだ。
 そして、文化的虐待を強いてきた加害者たちに対して、彼らが無理なく「被害者」を理解したいと思える「よのなかの仕組み」を楽しさの中で醸成していくこともできるだろう。

 彼らには、知識量や経済力はあるかもしれない。
 だが、苦しめられてきた側にも、切羽詰ったからこそ蓄積してこれた「知恵」というものがある。
 苦しんできた当事者こそが、当事者の望む解決の姿を知っている。
 それは、世間を味方にしながら文化的虐待を「良かれ」と思って強いてきた人たちには、見えなかった社会的価値なのだ。

 親子関係を「両者間だけの問題だ」と矮小化してしまっては、当事者の苦しみはいつまでも終わらない。
 終わらないことで虐待の本は売れ続けることになるが、それで出版社は儲かっても、社会的には良いことではない。
 そのことを十分に理解してくれる編集者がいるといい。

 「文化的虐待」に関する本を読みたい方は、この記事の一番下にあるtwitterやFacebookなどの拡散ボタンを押してほしい。
 反響が大きくなれば、重い腰を上げる編集者も現れるだろう。

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